私は、肉体にいくつかハンデを持って生まれてきました。
生まれつき永久歯がかなり少ない身体で、学生の頃から義歯が入っています。
目もとっても悪くて、眼科では生まれつき水晶体が歪んでいるようだから、あまり目を酷使しないようにと言われてしまいました。
コンタクトが苦手で普段は眼鏡です。
大きな病院にはずっとお世話にならなくちゃならないんです。
だけど、人は私を見たときに、とても幸せそうだと思うようなのです。
あまり苦労を知らずに育ったと思うみたい。
人間、見た目じゃない。
見ただけじゃ分からないことばかり。
そうゆうことを除いたら、もしかしたらとても幸せかもしれないけれど。
だけど、もっと突き抜けたい。
そうゆうハンデも超えて歩んできた人生も超えて、超越するぐらいまで突き抜けていきたい。
先日、リーブスインスティチュート仲さんのFacebookに、感銘する言葉がありました。
『責任は、自分の真の目的から生まれるときは、重荷ではなく、生きる糧となる。喜びとなる。
自分の真の目的に気付くことで、苦痛は感謝と喜びになる。
だから私たちは、それは何かを問い続ける。
それは言われて分かることじゃない。
気付くって、体当たり。
自分の真の目的が分からないときは、まず「苦痛が自分に与える気付き」に向かい合い、感謝して行くことで、私たちは真の目的に近づける。
それこそが、私たちに気付きを与えてくれる。
この世界と宇宙は、常に逆説に真理がある。それを「無」とも呼ぶ』
最近、苦しみについてブログに書いていました。
苦しいばかりの人生って、いったいなんなんだろう。
そこまでして自分が突き抜けたいものってなんなんだろうって、よく思っていました。
もし、本当に逆説(パラドックス)に真理があるなら、私はいつも苦しみを原動力にして前に進んでいる気がする。
昔、言われた『私たちは人を癒すことでしか自分を癒すことができない』とゆう言葉も、逆説で真理かも。
一瞬、矛盾しているように思えるけれど…
人を癒すことが私の仕事だと言うなら、神様はなぜもっと楽に生きられる身体と心にしてくれなかったのだろうと、よく思いました。
自分で選んできたとは、とうてい思えなかったから。
でも、もっと周りの人を解放したいと思えるようになってから、責任や重荷よりも喜びの方が大きい。
まだまだ、苦しみが幸せに通じているとは言えない自分がいるけど。
やっぱり本当の喜びや幸せは、苦しみを突き抜けたところにあるのだ。
それは、日々向き合っていくとゆう努力でしか成し得ないもので
自分自身が、本当の意味で苦しみから解放されるとき、きっとそれを周りの人にも与えることができる。